なつかしの香港映画ブログ

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なつかし香港映画:ブルース・リーのすべて「幼少期~香港凱旋」(1)

「なつかしの香港映画ブログ」。ブルース・リーの人生。幼少時代からアメリカ時代までのエピソード(出生、子役時代、アメリカでの暮らしぶり、帰国など)。

幼少時代
リーの父親は広東演劇の役者だった李海泉。オールラウンドな役者で、年齢とともにコメディを演じることが多くなっていったという。母は何愛瑜(香港の実業家の娘)。李海泉がアメリカ巡業中、サンフランシスコの病院で生まれたのがブルース・リー(1940年11月27日、辰の刻(午前8時))。本名は「李振藩」。女医に「ブルース」という名を提案されて英語名「ブルース・リー」に。「李小龍」は子役時代に付けられた芸名。5人兄弟の次男(弟ロバート・リーは8歳下)。生後3ヶ月のときサンフランシスコで製作された映画『金門女』に出演。「女の赤ちゃん」役だったという。

子役
第二次世界大戦後、リーは子役として数多くの映画に出演。この頃の作品のいくつかはDVD化。「ブルース・リー アルティメット・コレクション」には『細路祥』『千萬人家』『苦海明燈』『孤星血涙』が収録されている。ユニコーン・チャンとは少年時代からの友達。子役時代にも二人は共演している。

渡米・結婚
リーが最初に習ったカンフーは太極拳。父から習ったという。1953年、詠春拳の使い手である葉問に弟子入り。その目的はケンカに強くなるため。その後、少林拳を習うため別の達人にも弟子入り。香港で行われたボクシング大会に出場し、前イギリス人チャンピオンを倒し優勝。喧嘩に明け暮れる日々。学校では嫌われ者。警察沙汰になるほどの果たし合い、脅迫状。父から渡米を命じられ、18歳のとき100ドルの所持金で単身渡米し、シアトルに移り住む。父の知り合いの家に泊めてもらえることになったリー。アルバイトと勉強の日々。ワシントン大学哲学科に進学。中国武術の指導で生活費を得る。同じ大学のリンダ・エメリーと結婚。次第に学校とは疎遠になったため、大学を中退し、道場経営に専念。そして、截拳道ジークンドー)を創始。しかしながら、アメリカでは武術がちょっとしたブームに。生徒の奪い合いのような形となり道場経営は行き詰まる。また、挑戦されることも増え、柔道家鈴木から挑戦されたときは楽勝(鈴木はその後、リーの弟子に)。しかしながら、負けてリーを恨む者も。

TV出演
1966年、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武。TVシリーズグリーン・ホーネット』で「カトー」役を得る。これをきっかけにハリウッドの俳優に武術の個人指導をするようになり、TVや映画出演でさらに顔を売ることができた(『バットマン』『復讐の鬼探偵ロングストリート』『かわいい女』ほか)。この頃に知り合ったのが大物スティーブ・マックイーンジェームズ・コバーンチャック・ノリス、カリーム・アブドゥル=ジャバー、ダニー・イノサントら。マックイーンを指導した授業料でリーはポルシェを買い、ヌンチャクはこの頃イノサントから習ったという。コバーンとは一緒に脚本を手掛けた『サイレントフルート』で共演する予定だったが、リーの強引な態度によりコバーンは手を引いた、と言われている。また、リーはコバーンと一緒の所を謎の敵に襲われたことがあり、そのときコバーンは恐怖心から何もできなかったという。

帰国
アメリカでは良い仕事に恵まれず、道場経営もイマイチ。香港に帰って自分のアイデアを生かすことに。ユニコーン・チャンの紹介で「ショウ・ブラザーズ」と出演交渉。あまりにも提示された出演料が安すぎるため交渉決裂。1970年、「ショウ・ブラザーズ」から独立したレイモンド・チョウが設立したばかりの「ゴールデン・ハーベスト」と1本1万香港ドルで2本の映画出演契約。あわてた「ショウ・ブラザーズ」はそれを上回るオファーをリーに提示したが、時既に遅し。そしてあの『ドラゴン危機一発』が製作される。

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ブルース・リー

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