「なつかしの香港映画ブログ」ジャッキーの人生を振り返る。出生、家族、「中国戯劇学院」での修行、スタントマン時代、売れない役者だった時代を紹介。
①プライベート
ジャッキー・チェン。漢字で「成龍」、英語では「Jackie Chan」。本当は「ジャッキー・チャン」だが、「チャン」だと女の子の名前みたいな印象があるため日本では「チェン」と呼ばれるようになった。出生名「陳港生(チャン・コンサン)」。しかし、本名は「房仕龍」(複雑な家庭の事情がある)。1954年4月7日、イギリス領香港のヴィクトリア・ピーク生まれ。妻は台湾の元女優ジョアン・リン。息子は俳優のジェイシー・チャン。父親は陳志平(チャールズ・チャン、本名: 房道龍)、母親は陳莉莉(リリー・チャン)。陳志平は中国国民党のスパイだった過去。国共内戦の結果、香港に逃れて改名。外国領事館勤めの料理人になった。父母はそれぞれ再婚で、ジャッキーには兄や姉がいる。
②修行
学校嫌いだったジャッキー。小学校に通ったが、アッサリ退学。その後、普通の学校とは大違いの厳しい所に預けられてしまう。「中国戯劇学院」。学長の于占元(ユー・イエムユン)はキツイ男。生徒を殴るのは当たり前。ジャッキーはそこで7歳から約10年間、京劇や武術を学んだ。
③映画界
タフなジャッキー。エキストラやスタントマンで映画出演。ブルース・リー『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)ではリーに蹴り飛ばされる役、『燃えよドラゴン』(1973年)ではリーに首を折られる役。『タイガー・プロジェクト/ドラゴンへの道 序章』(原題:廣東小老虎。1974年)で初主演。しかし、「お蔵入り」。ブルース・リーの急死によりカンフー映画市場はすっかり冷え込み、ウケなくなってしまっていたため。
④苦難
オーストラリアの両親を頼ることにしたジャッキー。左官やコックなどの職に。しかし、香港で再チャレンジ。「中国戯劇学院」時代の兄弟子サモ・ハンの紹介でジョン・ウー監督『少林門』に出演。主役ではなかったが、これもヒットせず。
⑤改名
1976年に「ロー・ウェイプロ」と専属契約。芸名を「陳元龍」から「成龍」に改名。「第二のブルース・リー」という位置づけで『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』(1976年)に主演。しかし、ヒットせず。『少林寺木人拳』(1976年)、『成龍拳』(1977年)、『飛龍神拳』(1977年)も不発。周囲から「大コケ俳優」と陰口を叩かれる日々が続いた。元々、自身のキャラを生かしたコミカルな作品を作りたかったジャッキー。ロー・ウェイの意向により「(典型的なパターンである)暗い復讐モノ作品」への出演が続いていたが、大きな転機が訪れる。
(YouTube)『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』予告編
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